- 終わりに -

「雨が降った」とは、どういうことでしょうか。
アリストテレスにとっては、「川が流れるために雨が降った」
中世の哲学者にとっては、「神が雨を降らせた」
デカルトにとっては、「自然法則に従って雨が降った」
バークリにとっては、「『雨が降った』と心が知覚した」
ヒュームにとっては、「『雨が降った』という観念が捏造された」
・・・そしてヘーゲルは、こう言うかもしれません。
「こうした意見の対立を通して、『雨が降った』ということへの理解が徐々に深まっていく」
一方、キルケゴールは、こう言うかもしれません。
「『雨が降った』ということが他人にとってどういうことであろうと、私には関係ない」
最後にソクラテスは、こう思うかもしれません。
「結局、どれも知ったかぶりに過ぎず、やはり私は何も知らない」

「雨が降った」ということについてだけでも、このように様々な捉え方があります。
しかし問題は、どの捉え方が正しいか、ということではありません。
どの捉え方も、本人にとっては正しいのです。
問題は、その捉え方を正しくしている前提は何か、ということです。
「神が雨を降らせた」という捉え方を正しくしている前提は、キリスト教です。
ですから、キリスト教を前提としなければ、この捉え方は正しくなくなります。
「『雨が降った』と心が知覚した」という捉え方を正しくしている前提は、心の存在です。
ですから、心の存在を前提としなければ、この捉え方は正しくなくなります。

では、キリスト教を前提としている本人が、そのことを自覚するとどうなるでしょうか。
「『神が雨を降らせた』と捉えるのは、キリスト教を前提としているからだ」
・・・こう自覚した時、もう既に、キリスト教はその人の前提ではありません。
キリスト教を前提としない捉え方もある、ということに暗に気づいてしまっているからです。
つまり、こういうことです。
ある事柄を自分の捉え方の前提だと自覚した瞬間に、その事柄は自分の前提でなくなる。
また、それに伴い、自分の捉え方も変わる。

同じことが、実は、これを書いているまこっちゃ自身についても当てはまります。
「雨が降った」ということについて哲学者たちはどう捉えるか、上で偉そうに述べました。
しかし、それは、まこっちゃが理解している通りの捉え方を彼らがしている、ということが前提です。
もし、まこっちゃが何か勘違いをしていれば、上で述べたことは大嘘だったということになります。
(そして、その可能性は大いにあります)
さらに、まこっちゃにはもっと大きな前提があります。
それは、「まこっちゃが思っているような『前提』がある」ということです。
もしかすると、まこっちゃは、「前提」がすべてを決めているかのような錯覚に陥っているだけかもしれません。
そうなると、もう、この《西洋哲学史》で述べたことはほとんど無意味だった、ということになります。
読まされたほうにとっては、たまったものではありません。

しかし、本当に無意味でしょうか。
ここで述べたことがすべてまこっちゃの錯覚だったとしても、それが無意味だとは限りません。
「無意味だ」と決め付けることもまた、実は、ある前提の上に立った捉え方かもしれないからです。
ある前提とは、例えば、「確かな根拠がなければ意味がない」というものです。
ですから、この前提に縛られなければ、こう考えることもできます。
「確かな根拠がなくても、相手に伝わっていれば、そこに意味がある」

さて、ここで新たな疑問が湧いてきます。
確かな根拠がなくても伝わっているとしたら、それはなぜでしょう。
(例えば、ここでまこっちゃが伝えようとしていることが伝わっているとしたら、それはなぜでしょう)

・・・おそらくそれは、伝える側と伝えられる側が同じ前提を共有しているからです。
冒頭でも述べたように、前提の違うもの同士では、話は噛み合いません。
つまり、相手と自分が同じ前提を共有していなければ、伝えたいことも伝わらないということです。
逆に、伝えたいことが伝わるのは、相手と自分が同じ前提を共有しているからです。
同じ前提を共有していれば、根拠のない話でも、ちゃんと伝わります。
実際、世の中の会話のほとんどは、そのようにして成り立っているはずです。

人は、相手によって前提を使い分けています。
というより、むしろ相手に伝えようとすると、自然とそうなってしまうのです。
意識してやっているわけではありません。
そもそも前提の大きな特徴は、意識すると前提でなくなってしまうことでした。
つまり、前提の使い分けは、意識せずにやっているからこそできる芸当なのです。

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まこっちゃが、ここで最も伝えたかったこと。
それは、前提についてです。
しかし、あからさまに前提を意識すると、前提は逃げていってしまいます。
前提について伝えようとしても、それがどのくらい伝わるものなのか、まったく自信がありません。
自信がないどころか、前提を追いかけすぎると、前提があることすらも本格的に怪しくなります。
ですから、前提そのものと真正面に向き合うのは、あまり得策ではありませんでした。
そこで間接的に伝えるために題材として選んだのが、西洋哲学史でした。

この《西洋哲学史》は、一応、本来の意味での西洋哲学史としても読める構成になっています。
(実際、そのように読まれるかたが大半でしょう)
しかし、その意味においては、この《西洋哲学史》は大変、不十分です。
普通、西洋哲学史は、サルトルで終わりではありません。
サルトル以後も、今日に至るまで、まるで違う前提のにおいのする哲学者が多く現れています。
また、それ以前についても、ここでは紹介しなかった有名な哲学者が何人もいます。
ですが、ここでは、これ以上立ち入りません。
西洋哲学史については、既に様々な解説書が出版されていますから、詳しくはそちらにお任せします。

最後に二つほど、補足です。

まこっちゃは日頃から、前提について伝える上で最も大切なのは「初心の能力」だと思っています。
初心、というのは、初心者の初心です。
何事も初心者のうちは、前提があやふやで定まっていません。
熟練者になるためには、前提をきちんと固め、揺るぎないものにすることが不可欠です。
しかし、前提について伝えたければ、自分の前提が固まっていることは、むしろ弊害となります。
過去の哲学者が残した書物を一冊も読破せずに《西洋哲学史》を書いた本当の理由は、ここにあります。
誰かの哲学をじっくりと学び過ぎて、自分がその哲学の前提から抜け出せなくなってからでは遅い。
・・・そう思ったからです。

また、どの哲学者についても、なるべく短い文章で書き上げるよう心掛けました。
それは、前提の違いを掴みやすく仕上げることに重点を置いたからです。
あまり長い文章を読まされると、読み進めるうちに、最初のほうから徐々に忘れていってしまいます。
これでは、哲学者同士の前提の違いを掴み取るのに適しているとは言えません。
詳しく理解することと、前提を渡り歩くことは、相反することなのです。

(2005年3月30日)
『NEXT』