カントは、認識できる世界の限界を示しました。
そして、認識する自分と行動する自分をはっきり区別しました。
しかし、19世紀初め、カントのこうした世界観・人間観に反発する一派が現れました。
ロマン主義者たちです。
フィヒテ(1762-1814)という哲学者は、人間のあり方に注目しました。
人間は、様々な障害を乗り越えながら生きています。
障害を乗り越えられるのは、その障害を認識しているからです。
また、障害を認識するのは、その障害に行動を妨げられているからです。
このように、認識する自分と行動する自分は深く結びついていて、決して区別されません。
シェリング(1775-1854)という哲学者は、世界のあり方に注目しました。
世界全体は、常に生き生きと動いています。
雨も川も人間も動物も、どれもみな一つにつながっています。
(→「2.5.アリストテレス」の項を参照)
すべては、一つの巨大な生命活動です。
ロマン主義者たちは、この巨大な生命活動を司る原理を「世界精神」と呼びました。
人間の精神のなかにも、自然のなかにも、「世界精神」は宿っています。
ですから、精神と物質の違いとは、単に「世界精神」の現れ方の違いに過ぎません。
(→「4.2.スピノザ」の項を参照)
さて、世界精神は、しばしば人間の精神を通して芸術作品をも生み出します。
天才的芸術家が何かに憑かれたように作品を創り上げる時が、まさにその時です。
当然、芸術作品のなかにも世界精神は宿っています。
一方、作品の鑑賞者は、作品にのめり込むと、神秘的な体験をすることがあります。
それは、まさに世界精神と出会った瞬間であり、世界そのものに触れた瞬間です。
このように、人間は認識の限界を越えて、世界そのものを直観的に知ることができます。
カントは言いました。
「人間には認識できないものがある」
しかし、認識できなければ、「認識できないもの」と言うことすらできないはずです。
そもそも、「認識できないもの」と言った時点で、既にそれは認識されています。
現に、カントはそれを認識して、信仰によって語ろうとしました。
真理を捉えるのは人間の精神ですから、真理はあくまで主観的なものです。
認識できない真理などというものは存在しません。
哲学者ヘーゲルは、人間が認識している真理全体を「世界精神」と呼びました。
なお、ロマン主義者たちが「世界精神」と呼んだのは、すべての根源であるような真理でした。
しかし、人間の精神のあり方は、歴史とともに移ろいます。
それに伴い、人間が認識する真理全体もまた移ろいます。
したがって、ロマン主義者たちが言うような根源的な真理などは存在しません。
根源的な真理を直観的に知ろうとするのは、天才的芸術家が抱く幻想に過ぎません。
かつて、ソフィストたちは言いました。
「物事の捉え方は、人によって違う」
しかし、ソクラテスはこう反発しました。
「人によって違うことのない、正しい物事の捉え方がある」
この両者の対立から生まれたのが、次のような、プラトンの考え方でした。
「感覚で捉えるものは人によって違うが、理性で捉えるものは永遠に正しい」
ところが、中世の哲学は次のように語ります。
「人間の理性には限界があり、永遠に正しいことは神しか知らない」
そこで、すべてを疑い直したデカルトは、次のような結論に到達しました。
「絶対確実なもの、それは思惟である」
しかし、このデカルトの考え方もまた、後の哲学者からは再び批判の的となっていきます。
このように世界精神は、歴史のなかで、思想の対立を通して少しずつ前進していきます。
これはちょうど、一人の人間の精神が成長する過程とよく似ています。
人間は、子供の頃には自分のことだけしか考えません。
そのため、同じように自分のことだけしか考えない相手と、激しく対立します。
この対立は、やがて子供の心のなかに、社会的にものを考える精神を育みます。
しかし、その社会も現実にはさまざまです。
社会ごとの価値観の違いや言語の差は、やはり激しい対立を生みます。
こうした対立から育まれるのが、芸術的精神や宗教的精神、特に哲学的精神です。
世界精神も、こうして徐々に成熟していくのです。
ロマン主義者とヘーゲルにとって、真理とは、人類共通のものでした。
しかし、哲学者キルケゴールは、この真理観に強く反発します。
確かに、真理は主観的なものです。
ただし、この主観は、あくまで私の主観です。
つまり真理とは、私にとっての真理です。
私にとって真理でないものは、真理ではありません。
ヘーゲルが滑稽なのは、他人にとっての真理ばかりを研究していたことです。
彼は、真理を理性で捉えようとするあまり、肝心の我を忘れていました。
ある愛が本当なのは、その愛の根拠を理屈で説明できるからでしょうか。
あることが正しいのは、誰かがそのことを正しいと言うからでしょうか。
・・・そうではありません。
ある愛が本当なのは、その愛を本当だと信じているからです。
あることが正しいのも、そのことを正しいと信じているからです。
真理に、理性や他人による裏付けなどありません。
真理とは、ひとえに私が信じていることだからです。
人は、その人生において、しばしば大きな選択を迫られます。
しかし、その時、知が役に立たなければ、信じて決断するしかありません。
自分の全存在を賭けて、その責任を負いながら。
古来より、哲学は、自然や精神がいかなるものであるかを問題にしてきました。
あるいは、それらがどのように存在しているかを問題にしてきました。
しかし、そもそも「存在している」とはどういうことでしょうか。
哲学者ハイデガーは、この問題こそが最も重要だと考えました。
普段、人は、存在のことなど意識せずに暮らしています。
大抵の存在は、存在しているのが当たり前だからです。
ところが、それが当たり前でなくなった時、存在は、にわかに存在感を帯びてきます。
例えば、いつも定刻に来ている電車が来なかった時の、「電車」という存在。
例えば、外国へ旅行した時の、「日本語」という存在。
こうした時に、人は、その存在を強く意識します。
しかしながら、「電車」には、「バス」や「自動車」という代わりのものがあります。
「日本語」にも、「英語」や「身振り」という代わりのものがあります。
代わりのものがあれば、やがて人は、存在しなくなったもののことは忘れてしまいます。
一方、どうしても代わりのものがない存在があります。
それは、「自分」という存在です。
「自分」が存在しなくなったら、もう、「自分」の代わりになるものはありません。
ただひたすら、存在しなくなってしまうのみです。
・・・実は、このことに気づいてわかるのが、「存在している」ということの本当の意味です。
つまり、その重みであり、かけがえのなさです。
多くの人は、普段、このかけがえのない存在の意味に気づいていません。
あるいは、それを忘れています。
なぜなら、いつも目先の未来のことに気を取られているからです。
例えば、電車に乗るのは会社や学校に行くため。
会社に行くのは給料をもらうため、というように。
しかし、その先にあるのは何でしょうか。
未来のことを考え抜けば、いずれ、その先にある死と直面するはずです。
つまり、いつかは「自分」が存在しなくなることに気づく、ということです。
この時初めて、今ここにある生を、かけがえのない貴重なものとして経験することができます。
こうして、人は、「自分」という存在が持つ本当の意味を自覚するのです。
キルケゴールが重視したのは、彼自身にとって紛れもない現実でした。
ハイデガーが注目したのも、紛れもない現実における存在でした。
しかし、かつてプラトンが重視したのは、現実ではなく本質でした。
まず本質があって、それを基準に現実の存在が作られる。
・・・こうした捉え方です。
こうした捉え方は、カントやヘーゲルの人間観にも見られました。
カントの場合、人間の認識の仕方が本質で、それによって認識される世界が現実です。
ヘーゲルの場合、世界精神が本質で、その成長過程で次々と現れる人間の精神が現実です。
両者の人間観に共通していること。
それは、現実の存在より前にまず本質がある、ということです。
しかし、そういう物事の捉え方は本末転倒だ、と考えた哲学者がいました。
サルトルです。
彼は、人間の場合、どうしても現実の存在が本質に先立つ、と考えました。
人生は、演劇に喩えられます。
私は人生の主人公であり、舞台に放り出された役者です。
気づいた時にはもう舞台の上にいて、演劇が始まっています。
しかし、この演劇には、あらかじめ決められた本質すなわちシナリオがありません。
つねに自分の生を即興で演技する運命にあり、その結果として初めてシナリオが作られます。
ですから、この演技はやり直しが不可能で、シナリオすべての責任は自分にあるのです。
サルトルは、これを次のように表現しました。
「人間は自由の刑に処せられている」
人間は、世界を知覚する時、自由に世界を選んでいます。
その時の自分の関心や意向によって、自分にとって意味のあるものを知覚しているからです。
自分にとって意味のないものは、捨てています。
つまり、自分の生の意味は、自分が作っているのです。
その意味で、人間はどこまでも自由です。
(→「4.6.カント」の項を参照)