4.近世の哲学

  1. デカルト(1596-1650)
  2. プラトンにとって、絶対確実なものは「イデア」でした。
    中世の人々にとって、絶対確実なものは「神」でした。
    しかし、いずれにしても、疑いもせずにただ絶対確実と決め付けるわけにはいきません。
    そこで、哲学者デカルトは、まず、あらゆるものを徹底的に疑いました。

    イデアは、本当に存在するのでしょうか。
    神は、本当に存在するのでしょうか。
    ・・・そもそも、この世界は本当に存在しているのでしょうか。
    すべては夢かもしれません。

    ところが、このように疑えば疑うほど、実は、疑う余地のなくなっていくものがあります。
    それは、まさにこうしてすべてを疑っている、「思惟(=自分)」の存在です。
    デカルトは、このことを次のように表現しました。
    「我思う、ゆえに我あり」

    絶対確実なもの、それは「思惟」の存在です。
    すると、もう一つ、疑う余地のないものが出てきます。
    それは、長さや幅や大きさのような、「ひろがり(=空間的な拡がり)」の存在です。
    「思惟」がそれを常にはっきりと認識しているため、その存在を疑うことはできません。
    もう一つの絶対確実なもの、それは「ひろがり」の存在です。

    なお、「思惟」は「ひろがり」を持っていません。
    また、「ひろがり」も「思惟」を持っていません。
    したがって、「思惟」と「ひろがり」は、互いに独立した、まったく別の存在です。

    自然界とは、結局、「ひろがり」の世界です。
    ですから、自然界に属するものには「思惟」がありません。
    これらは自然法則に従って、ただ機械的に動いているだけです。
    (→「1.4.デモクリトス」の項を参照)
    ただし、人間の場合は例外と考えるしかありません。
    人間は自然界に属しているにも関わらず、自分の自由意志で動くことができます。
    それは、特別な脳組織によって、心(思惟)と身体(ひろがり)がつながっているからです。

  3. スピノザ(1632-1677)
  4. デカルトの人間観は、次のようなものでした。
    「自然界に属するものでありながら、人間には自由意志がある」
    哲学者スピノザは、この人間観に異を唱えます。

    そもそも、人間の意志は本当に自由でしょうか。
    「食べたい」と思うのは、そう思う条件が整ったからです。
    「遊びたい」と思うのも、そう思う条件が整ったからです。
    人間の意志も、自然法則に従っている、という点ではまったく同じです。
    ただ、本人にその自覚がないだけです。

    例えば、おいしそうな食べ物が目の前に置かれた場合。
    心(思惟)は、「食べたい」と思うでしょう。
    身体(ひろがり)は、つばを出すでしょう。
    あるいは、不眠不休の仕事からようやく解放された場合。
    心(思惟)は、「眠りたい」と思うでしょう。
    身体(ひろがり)は、あくびをするでしょう。
    結局のところ、思惟とひろがりの違いとは、単に自然法則の現れ方の違いに過ぎません。

    絶対確実なもの、それは自然法則です。
    すべては自然法則に支配されています。
    ですから、自然法則をきちんと理解することが、まず大切です。

  5. ロック(1632-1704)
  6. デカルトは言いました。
    「思惟は、ひろがりを、常にはっきりと認識している。ゆえにひろがりは存在する」
    しかし、このような物事の捉え方は本末転倒だ、と考えた哲学者がいました。
    ロックです。

    そもそも、生まれたての赤ん坊の心に、初めから「ひろがり」のような観念があるでしょうか。
    あるはずがありません。
    「ひろがり」のような観念は、自然界を感覚的に経験してから初めて手に入る観念のはずです。
    ですから本当は、こう考えるのが自然です。
    「まず、ひろがりが存在する。思惟はそれを、感覚的経験を通して認識するようになる」
    (→「2.5.アリストテレス」の項を参照)

    感覚する前の心は、白紙です。
    つまり、いかなる観念もない状態です。
    しかし、やがて心は、感覚的経験を通して、さまざまな観念を手に入れていきます。
    例えば、「白い」、「甘い」、「サラサラしている」・・・。
    こうした感覚をつなぎ合わせることによって、「砂糖」という複雑な観念が手に入ります。
    また例えば、「白い」、「赤い」、「青い」・・・。
    こうした感覚を比較することによって、「色」という抽象的な観念が手に入ります。

    なお、感覚には二つの性質があります。
    一つは、ひろがりを感じ取る「客観的性質」です。
    もう一つは、色や味、手触り、匂いなどを感じ取る「主観的性質」です。
    感覚の「客観的性質」は、世界の姿を正しく捉えています。
    しかし、色や匂いなどの感じ方は、目や鼻などのつくりによって変わってきます。
    ですから、感覚の「主観的性質」は、世界の姿を正しく捉えているとは言えません。

  7. バークリ(1685-1753)
  8. デカルトとロックの世界観は、次の点で共通していました。
    「ひろがりの世界は確かに存在している」
    しかし、そのような物事の捉え方がそもそも疑わしい、と考えた哲学者がいました。
    バークリです。

    心は、ひろがりを直接感じ取るのではありません。
    心が直接感じ取るのは、「色(視覚)」や「手触り(触覚)」です。
    この「色」や「手触り」から手に入るのが、長さや幅といった、「ひろがり」の観念です。

    つまり、感覚の「客観的性質」も、もとをたどれば「主観的性質」の一種に過ぎません。
    ですから、認識した通りのひろがりが確かに存在している保証など、実はどこにもないのです。
    確かなのは、そのようなひろがりを心が認識している、ということだけです。

    そもそも、何かが存在する、ということの本当の意味は何でしょうか。
    それは、その何かを心が感じ取っている、ということです。
    実際、それ以上でも、それ以下でもありません。
    バークリは、これを次のように表現しました。
    「存在するということは、知覚されるということである」

  9. ヒューム(1711-1776)
  10. デカルトとロックとバークリの世界観は、次の点で共通していました。
    「心は確かに存在している」
    しかし、そのような物事の捉え方がそもそも疑わしい、と考えた哲学者がいました。
    ヒュームです。

    疑うことができないのは、次のような、生々しい感覚そのものだけです。
    「熱い」、「明るい」、「甘い」・・・。
    しかし、こうした感覚そのものは、あっという間に過ぎ去ってしまいます。
    そして残るのが、次のような、感覚の記憶です。
    「熱かった」、「明るかった」、「甘かった」・・・。

    結局のところ、観念とは、感覚の記憶、またはその集まりです。
    ところが、記憶はしばしば捏造されます。
    そして実際、捏造された記憶から、多くの偽の観念が作られています。

    その一つが、「因果関係」という観念です。
    (→「2.5.アリストテレス」の項を参照)
    例えば、ビリヤードの白い球が黒い球に当たると、その結果、黒い球は動き出します。
    ・・・しかし、これは偽の観念です。
    実際に感覚するのは、白い球が黒い球に当たったことと、黒い球が動いたこと。
    そして、それがそのような順番で起こったことだけです。
    二つの出来事の間には、もともと時間的な前後関係しかありません。
    それを早合点して捏造されたのが、「因果関係」という偽の観念です。

    なお、「自然法則」は、いくつかの「因果関係」から成っています。
    したがって、「自然法則」もまた、捏造された、偽の観念です。

    では、「心」という観念は、どこから手に入るのでしょうか。
    それは、さまざまなことを感じる”私”が終始一貫していることからです。
    ・・・しかし、これはまさに、時間的な前後関係の早合点にほかなりません。
    実際に感覚するのは、目まぐるしく次々と現れるさまざまな感覚の連続だけです。
    それを早合点して捏造されたのが、「心」あるいは「自分」という偽の観念です。

  11. カント(1724-1804)
  12. デカルトとスピノザは、理性で物事を捉えようとしました。
    ロックとバークリとヒュームは、感覚で物事を捉えようとしました。
    しかし、物事を捉えるには理性も感覚も必要だ、と考えた哲学者がいました。
    カントです。

    そもそも、世界そのものについては、確かなことなどわかりません。
    わかるのは、人間が認識できるものについてだけです。
    人間が認識できるものとは、人間の感覚によって捉え得るもののことです。
    感覚によってしか、人間はものを認識できないからです。

    また、認識の仕方そのものを認識することはできません。
    例えば、時間や空間や因果関係は、認識の仕方の代表的なものです。
    人間は、物事を、時間や空間や因果関係のなかに位置づけて捉えています。
    しかし、時間や空間や因果関係そのものを感覚によって捉えることはできません。
    なぜなら、これらは理性として、生まれつき人間の側に備わっているものだからです。

    つまり、時間や空間や因果関係は、世界の側にあるのではありません。
    人間の認識の仕方が、世界をそのようなものとして捉えているのです。
    カントは、これを次のように表現しました。
    「認識が対象に依存するのではなく、対象が認識に依存する」

    では、世界そのものについては、どう捉えればいいのでしょうか。
    「神は存在するのか」
    「宇宙全体はどうなっているのか」
    「”私”は死ぬとどうなるのか」
    ・・・実は、こうした究極の問いは、個人の信仰に任されるべき問題です。
    なぜなら、認識できないものについては、確かなことは言えないからです。
    無理に断定を下そうとすれば、対立する二つの答えが出てきてしまいます。
    例えば、「神は存在する」と断定すれば、それに応じて矛盾のない説明がつけられます。
    しかし、「神は存在しない」と断定しても、それに応じて矛盾のない説明はつけられるのです。

    人間は、与えられた感覚と理性の範囲でしか、物事を捉えることができません。
    その意味では、人間には自由意志がありません。
    (→「4.2.スピノザ」の項を参照)
    しかし、信仰や、それに基づいた道徳は、感覚にも理性にも縛られません。
    自分自身の信仰や道徳に従って行動する時、人間は、初めて自由意志を持つのです。

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