2.ギリシア哲学(2)

  1. 民主政治
  2. 紀元前500年頃、ペルシア戦争が始まりました。
    この戦争は、当時の強国ペルシアがギリシアを征服するために始めたものです。
    しかし、ギリシアの激しい抵抗によって、ペルシアはこの戦争に敗れました。

    さて、話をギリシアの側に戻します。
    この戦争を通して、政治に対して強い発言力を持つようになった人々がいました。
    大都市アテネの一般市民(⇒成人男子。ただし奴隷を除く)たちです。

    彼らは、アテネがペルシア軍に攻め込まれた際、市民軍として大変活躍しました。
    そのためアテネでは、政治に対する彼らの発言力が一気に強くなりました。
    やがて、彼らは参政権を獲得し、アテネの政治に直接たずさわるようになります。
    紀元前5世紀、アテネの民主政治は、こうして全盛期を迎えました。

  3. ソフィスト
  4. 一般市民の誰もが参政権を持つアテネでは、議論のうまい人ほど有利です。
    そのため、弁論術や基礎的教養を説く人材が、広く求められるようになりました。
    この求めに応じたのが、ソフィスト(知者)を名乗る人々です。
    彼らの多くは、諸国を渡り歩いて見聞を広めた、旅する知識人でした。

    ところで、物事の捉え方というものは、人によって違います。
    裸でいることを恥ずかしく思う人もいれば、そうは思わない人もいます。
    その人が慣れ親しんできた文化によって、物事の捉え方はさまざまに違ってきます。

    旅のソフィストたちは、このことをよく知っていました。
    そして、正しいことと正しくないことの絶対的な基準なんてない、と考えました。
    どんな基準も、あくまで相対的なものでしかなく、人それぞれです。
    ソフィストの一人、プロタゴラスは、これを次のように表現しました。
    「人間は万物の尺度である」

  5. ソクラテス
  6. 「正しいことの絶対的な基準などない」
    ・・・これが、ソフィストたちの言い分です。
    しかし、哲学者ソクラテスは、こうした彼らの態度を強く批難しました。

    どんな基準も絶対的に正しいとは言えない、という主張。
    それは、この主張もまた絶対的に正しいとは言えない、という主張です。
    ですから、この主張は自己矛盾しています。
    つまり、これは単なる知ったかぶりか、相手を言い負かすための屁理屈に過ぎません。

    正しいことの絶対的な基準は、必ずあるはずです。
    では、その基準を知るためにはどうすればいいのでしょうか。

    まずは、ソフィストたちのような知ったかぶりの態度を改める必要があります。
    少し謙虚になって考えれば、自分がどれほどものを知らないか、すぐにわかるはずです。
    しかし、知ったかぶりをしている間は、そのことにすら気づきません。
    ですから、まず自分の無知を自覚することが、絶対的な基準を知ることへの第一歩です。
    ソクラテスは、これを次のように表現しました。
    「無知の知」

  7. プラトン
  8. ソフィストたちは言いました。
    「物事の捉え方は、人によって違う」
    ・・・これは、確かに現実をよく言い当てています。
    しかし、何もかも違うわけではありません。
    ソクラテスは、人によって違うことのない、絶対的な基準を探し求めました。
    これに答えたのが、彼の弟子プラトンです。

    人によって違うもの、それは感覚です。
    同じことでも、人によって感じ方はさまざまです。
    ですから、感覚で捉えるものはあてになりません。
    ところが人は、世の中のものをあまねく五感(つまり感覚)によって捉えています。
    ですから、世の中のものはどれも不確かで、あてになりません。

    人によって違わないもの、それは理性です。
    例えば「三角形」なら、誰でも「三本の直線で囲まれた図形」をイメージします。
    これは、慣れ親しんだ文化に関係なく、正しいイメージです。
    つまり、理性で捉えるものは絶対的な基準になります。
    プラトンは、理性で捉えられるこの基準を「イデア」と名付けました。

    ところで、自然界における原子の組み替えは、まったくの偶然に行なわれるのでしょうか。
    (→「1.4.デモクリトス」の項を参照)
    この問いに対しても、プラトンは「イデア」で答えました。
    つまり、原子の組み替えは「イデア」を基準に行なわれるのです。
    例えば、世の中の「馬」は、「馬のイデア」を基準に原子が組み合わさって作られます。
    だからこそ、変な物体にはならずに、ちゃんと「馬」になるのです。

    イデアは、永遠に不変の絶対的な基準です。
    一方、世の中のものは、イデアを基準に作られてはいるものの、どれも不確かです。
    ですから、世の中のものに惑わされてはなりません。
    理性を磨き、イデアそのものをきちんと知ることが大切です。

  9. アリストテレス
  10. プラトンの世界観は次のようなものでした。
    「世の中の個々のものは、イデアを基準に作られている」
    しかし、このような物事の捉え方は本末転倒だ、と考えた哲学者がいました。
    プラトンの門下生、アリストテレスです。

    そもそも、馬を一頭も見たことがない人に、馬のイデアがわかるでしょうか。
    わかるはずがありません。
    馬のイデアは、個々の馬を実際に観察してから初めて作られる概念のはずです。
    ですから本当は、こう考えるのが自然です。
    「イデアは、世の中のものの観察を通して作られる」

    結局のところ、イデアとは、世の中の個々のものの共通点の集まりです。
    例えば、世界中の馬の共通点を集めれば、典型的な馬の姿ができあがります。
    これこそ馬のイデアにほかなりません。
    ですから、理性も大切ですが、まず、世の中のものをよく観察することが大切です。

    さて、自然界をよく観察すると、どこもかしこも因果関係に満ちていることがわかります。
    例えば、川が流れるのは、雨が降るからです。
    言い換えると、雨が降るのは、川が流れるためです。
    さらに、川が流れるのは、人間や動物に水を与えるためです。
    ・・・このように、自然の営みは、すべて何らかの目的のために動いています。
    注意深い観察の積み重ねが、こうした世界の仕組みの解明につながるのです。

『NEXT』