紀元前700年頃、詩人ホメロスらによって、ギリシア神話が初めて文章化されました。
まず、その前後の経緯について簡単に述べます。
もともとギリシアでは、神話が人から人へと語り継がれていました。
しかし、語り継がれる神話の内容は、地方によってまちまちでした。
ホメロスらは、ギリシア各地を巡り、これらを数冊の書物にまとめ上げました。
こうしてギリシア神話は、書物を通して読み継がれていくものになりました。
さて、このホメロスらの仕事は、ある大きな役割を果たしました。
(ホメロスら自身がそう意図していたかどうかはわかりませんが)
それは、ギリシア神話についての実のある議論を可能にした、ということです。
なぜなら、人々が、同じギリシア神話の内容を共有するようになったからです。
こうして、ギリシア神話について、積極的に議論が交わされるようになりました。
やがて議論が盛んになると、神話そのものを批判する人々も現れるようになりました。
主な批判は、次のようなものでした。
「(実は)我々人間が、自分たちの姿になぞらえて神々を創ったのではないか」
太陽、海、大地などの自然の営みは、もともとギリシア神話のなかで説明されていました。
太陽の神、海の神、大地の神。
このように、自然の営みそれぞれに対応する神々の物語として。
また、その神々によってもたらされた、世界誕生の物語として。
これに対し、自然の営みの、神話に拠らない説明を目指した人々がいました。
紀元前6世紀頃のことです。
彼らは、今日、「自然哲学者」と呼ばれています。
自然哲学者たちは、自然の営みを、自然に即して説明しようとしました。
そのため、自然の営みを注意深く観察しました。
ある人は、すべてのものを作るおおもとの素材を突き止めようとしました。
ある人は、自然のあり方そのものについて問いました。
タレスは、西洋哲学史上、最初の哲学者とされている人です。
彼は、すべてのものを作るおおもとの素材を突き止めようとしました。
そして、自然をつぶさに観察した結果、次のように考えました。
水がすべての起源である、と。
アナクシマンドロスという哲学者は、タレスの考えに異を唱えました。
土や火を作る素材も、水自身を作る素材も、ともに水であるなんておかしい。
・・・そう考えたからです。
彼は、これらとはまったく別の物質である「アペイロン」というものを想定しました。
「アペイロン」というのは、「無限定なもの」という意味です。
つまり、水、土、火のような特定のものには限定されない別のものです。
彼は、この「アペイロン」がすべての源だと考えました。
一方、ヘラクレイトスという哲学者は、自然のあり方そのものについて問いました。
そして、目まぐるしく変化することこそが、まさに自然の原理だと考えました。
「万物は流転する」
彼はこのように言った、と伝えられています。
タレスとアナクシマンドロスの自然観は、ともに次のようなものでした。
「すべてのものを作るような、おおもとの素材がある」
しかし、そのような物事の捉え方がそもそも間違っている、と考えた哲学者がいました。
自然哲学者の一人、パルメニデスです。
仮に、おおもとの素材が「水」だったとします。
それが「土」を作る、ということは、何らかの方法で「水」が「土」に変化する、ということです。
「水」が「土」に変化すると、どうなるでしょうか。
最初にあった「水」はなくなります。
その代わり、新たに作られた「土」が出てきます。
つまり、「水」が消えて「土」が現れる、ということになります。
これが、おおもとの素材である「水」が「土」を作る、ということの意味です。
しかし、それまであった物が突然消える、などということが起こりうるでしょうか。
あるいは、それまでなかった物が突然現れる、などということが起こりうるでしょうか。
このようなことが起こりうるとは、とても考えられません。
「水」は「水」であり続ける以外になく、「土」に変化することはできないはずです。
「アペイロン」も、あくまで「アペイロン」であり続けるはずでしょう。
ですから、何かが別のものに変化する、という捉え方自体がそもそも間違っています。
パルメニデスは、これを次のように表現しました。
「あるものはあるのであって、ないものはない」
ヘラクレイトスは、自然の変化を積極的に認めました。
一方、パルメニデスは、何かが変化すること自体を認めませんでした。
この二人の物事の捉え方は、真っ向から対立します。
ところが、この二つの捉え方は両方とも正しい、と考えた哲学者がいました。
最後の自然哲学者、デモクリトスです。
彼は、「原子」というものを想定しました。
原子とは、それ以上小さい部分に分けることができない最小のものです。
ですから、形や大きさが変わることはありません。
また、消えることもありません。
原子は、同じ原子のままであり続けます。
ただし、原子には様々な形のものがあります。
丸い原子もあれば、でこぼこの形の原子もあります。
そして、すべてのものは、これら原子の”組み合わせ”によって作られます。
作られるものは、原子の組み合わさり方に応じて決まります。
このように考えれば、自然の変化についても納得のいく説明がつけられます。
つまり、自然が目まぐるしく変化するのは、原子の組み替えが絶えず起こっているからです。
決して、何かそのものが変化しているわけではありません。
しかし、原子の組み替えは、いつも偶然に起こっているのでしょうか。
まったくの偶然にしては、自然はうまく出来すぎている気がします。
すると、原子のほかに、自然に働きかける力や精神的な何かがある、ということでしょうか。
・・・デモクリトスは、こうしたものがあるとは考えませんでした。
彼は、すべては何らかの不変の法則に従っているのだと考えました。