- 始めに -

人は、よく言い争いをします。
言い争っている本人たちは、大抵、(極端な言い方をすると)頭に血がのぼっています。
だから、なかなか冷静にはなれません。
しかし、言い争いを眺めている第三者の場合は、別です。
個人的な利害が絡んでこなければ、冷静でいられます。

仮に、自分の知人同士が、目の前で言い争いを始めたとします。
自分が第三者なら、その言い争いについて、冷静に判断することができます。
話が噛み合っていなければ、すぐそれに気づくでしょう。
それに気づいたら、次に考えることは大体決まっています。
「いったい、どの辺が噛み合っていないのか」ということです。
言い争っている二人の人柄をよく知っていれば、その答えも自ずとわかるでしょう。

例えば、次のように考えます。
Aさんは、きっと○○というつもりでこのように言っている。
しかし、Bさんは、それを△△と受け止めて聞いてしまっている。
ここで話が噛み合っていない。
だから、いつまでも言い争いが続く。

これは、そのまま「どうしてこの話は噛み合わないのか」の答えにもなります。
つまり、物事の捉え方が違うと、そこで話は噛み合わなくなるのです。
話が噛み合わないと、言い争いが始まる原因になります。
同時に、言い争いが終わらない原因にもなります。

ところで、物事の捉え方は、人によって違います。
このことは、日々、多くの人が実感しているところでしょう。
人は、物事の捉え方が違っていても、互いに認め合いながら生きています。
物事の捉え方が違っていても、いつも話が噛み合わないわけではありません。
物事の捉え方がまるで違う人同士のほうが、かえって仲良くなることさえあります。
・・・ただしそれは、「違い」を互いに認め合うならば、の話です。

物事の捉え方の違いを、どうしても認めることができない場合があります。
その代表例が、「言った/言わない」の口論です。
A: そんなことは言ってないよ。
B: 言ったよ。確かに聞いた。○○って。
A: 違うよ、それは△△っていう意味で言ったんだよ。
B: そんな風には聞こえなかった。
・・・大体、こういう感じでしょう。

この口論の原因は何でしょうか。
まず、Aの発言「○○」について、AとBの間で捉え方が違っていたこと。
おそらくこれが、この口論が始まったきっかけです。
加えて、その捉え方の違いを互いに認めることができなかったこと。
これが、最後まで話を噛み合わなくしている原因です。
物事の捉え方の違いを互いに認めることができない限り、話は噛み合いません。

もう一つ、別の例を挙げます。
AさんとBさんが言い争いをしています。
Aさんは「信号は青だった」と主張しています。
Bさんは「信号は赤だった」と主張しています。
信号は、大変見通しのよいところにある見やすいものでした。
ところが、どちらも嘘をついているわけではありません。
見間違えや勘違いはあったかもしれませんが、それは嘘をつくことではありません。

しかし、信号が青か赤かなんて、見ればすぐにわかることです。
普通、間違えようがありません。
だからこのような場合、物事の捉え方の違いを認めることは難しいはずです。
「人によって、青のこともあれば赤のこともある」なんて考えられないからです。
どちらかの主張そのものを誤りとするほかありません。
言い争いの当事者としては、相手の主張を誤りとするほかないでしょう。
Aさんにとっては、「信号は青だった」ということが前提です。
だからAさんにとっては、Bさんの主張はそもそも誤りです。
Bさんにとっては、「信号は赤だった」ということが前提です。
だからBさんにとっては、Aさんの主張はそもそも誤りです。
前提が違うもの同士では、話は噛み合いません。

物事の捉え方の違いをどうしても認めることができない状況の共通点。
それは、前提が違う、ということです。
人は誰しも、その人その人の前提を持っています。
Aさんにとっては、「信号は青だった」ということが前提でした。
これを前提としなければ、自分自身の目や脳を疑わなくてはならなくなります。
しかし、それを疑い始めたらきりがありません。
とても生きてはいけないでしょう。
だからそれを疑うことはせずに、前提とするのです。
前提は、生きる上で必要不可欠なものだと言えるでしょう。

ところで、「物事の捉え方」と「前提」。
どちらも、それが違う人同士の話を噛み合わなくさせるものです。
その意味では、この二つの言葉は似ているかもしれません。
しかし、この二つは同じことの単なる言い換えではありません。
もう一度、両者の違いを確認しておきます。

物事の捉え方が違う場合。
物事の捉え方の違う二人が言い争っているとします。
冷静な第三者は、その違いを把握することができます。
二人をよく知っていれば、二人の物事の捉え方そのものについても想像がつきます。
仲介役を買って出て、話が噛み合わない原因を説明することもできるでしょう。
話が噛み合わない原因とは、捉え方の違いのことです。
説明が的を射ていれば、説明された当事者は納得します。
当事者の二人が納得すれば、以後、話は噛み合うようになるでしょう。

前提が違う場合。
前提の違う二人が言い争っているとします。
冷静な第三者は、そこに違いがあることを察知することだけはできます。
しかし、両者の前提そのものについて、同時に想像することはできません。
(例えば、一つのものが同時に青くも赤くも見える、という想像はできません)
前提は、あくまでも前提です。
考えてわかるようなものではありません。
わかるのは、せいぜい自分自身が持っているのと同じような前提だけです。
(もし自分には青く見えるのなら、青く見える、ということだけはわかります)
前提の違うもの同士では、いつまでも話は噛み合わないままです。

「前提」とは、より根本的な「物事の捉え方」のことだ、とも考えられます。
つまり、ある人の「物事の捉え方」は、すべてその人の「前提」の上に成り立つ。
・・・そういう考え方です。
ともあれ、「前提」は、本人の意志で自由にコントロールできるものではありません。
自分とは違う他人の「前提」を知りたければ、できることは、ただ一つ。
その人になりきってしまうことです。
ただし、そのときにはもう、今まで自分が持っていた「前提」はなくなっているでしょう。

時々、ある体験を境に、世の中に対する見方が大きく変わってしまうことがあります。
その体験をする前と後とでは、自分の「前提」が大きく変わっているはずです。
「前提」が変わってしまった後は、それまで持っていた「前提」は思い出せなくなります。
できるのは、ただ、それらしき名残をたまに思い出すことのみです。

さて、前置きが長くなりました。

少し強引に話を進めてきましたが、とりあえず、「前提」について述べました。
西洋の過去の哲学者たちにも、それぞれの「前提」があります。
彼らの持つ「前提」そのものを説明することは、おそらくできないでしょう。
しかし、その「前提」に基づいた「物事の捉え方」を説明することならできるかもしれません。

「物事の捉え方」の違いを知れば、その「前提」の違いも見えてくる。
まこっちゃ(管理人)は、そう感じています。
これは、非常に安易な態度かもしれません。
なにしろ、まこっちゃは過去の哲学者たちが遺した書物をまだ一冊も読破していません。
それに、「前提」がそんな簡単にわかるものではないことは、自分でも書きました。
「前提」がある、ということ自体、本当は、そもそも怪しいものかもしれません。

それでも、まこっちゃは思わずにはいられません。
哲学史は、「前提」が人によっていかに違うかを垣間見る材料として、大変優れています。
いろいろな哲学者たちが、実にいろいろなことを言っているからです。
「前提」がいかに人を支配しているか、を知るには充分すぎるくらいです。
ここの表題は《西洋哲学史》となっていますが、裏のテーマは《前提》です。
「前提」について伝えるにはどうすればいいか。
あるいは、「前提」の違いを伝えるにはどうすればいいか。
逆に、「前提」について伝えようとすることが、どれほどの困難を抱えているのか。
かと思えば、同じ「前提」を相手と共有していることが直感的にわかることがあるのはなぜか。
その直感は、錯覚ではないのか。
これらが、まこっちゃにとっての、ここでのテーマです。

(2003年12月1日)
『NEXT』